2017年2月12日日曜日

ディーノ・ブッツアーティー『古森のひみつ』

昨年2016年に岩波少年文庫に加わった、ディーノ・ブッツアーティー『古森のひみつ』。まいりました。もう数日前に読了したのだけれど、いまだにあの物語の世界をひきずってます。退役した大佐。孤独な少年。時を刻むカササギ。深いモミの木の森。そして、いとしの風のマッテーオ。

森の奥を中心とした舞台はとにかく暗くて、寒くて、雪と風を感じる物語。でもじっと耳をすませたくなる、森や風が何を載せているのか。何も載せていないのだけど。そんな人の思惑など自然は何もおかまいなし。

みえっぱりでさびしんぼうな風のマッテーオが古森の世界の展開を知らせてくれます。こんな風の描き方もあったんだ。人の価値観に引き寄せた擬人化ではなく、という表現は何か矛盾ですが。

大佐と森の、これも擬人化ですが、駈引きも共に考えさせられます。

作者ブッツアティーが愛した北イタリアの山岳地帯を旅したくなります。今もきっとどこかにこんな古森があるはず。日本語で初訳。







 

2016年12月24日土曜日

ブックカフェ アラスカ

伊豆半島の小さな駅の目の前で、「ブックカフェ アラスカ」を始めました。

今年(2016年)はアラスカをテーマに写真を撮り続けた写真家・星野道夫の没後20年です。

いろいろきっかけをもらったので、お世話になったので、まだ見ぬ世界へのあこがれ、をつないでいきたいなという願いから始めました。

お店の場所と本たちはこちらに載せています。
https://librize.com/bookcafealaska

フェイスブックのページも作りました。まだ使い方がよくわかりません。
https://www.facebook.com/bookcafealaska/


「本の時間」「旅の時間」というイベントもしていきたいと考えています。


星野道夫のあるエッセイの中で、アラスカという厳しい環境の中で求められるのはある種の素朴さ、とあります。我が「ブックカフェ アラスカ」も、シンプルに挑戦していきたいと思います。


                                                 2016年 師走

店主 大くまのりこ
 


 

2016年6月26日日曜日

青山潤『アフリカにょろり旅』

ハノイに行ったとき、バックパッカー3人組(偶々ハノイで合流した、もともと別々の旅)に会って、その会話のテンポや内容に、なるほどバックパッカーという人たちはこういう風に旅をするものか、とちょっと目からウロコで、その旅をかきたてるものとか、どういう思いで、などを知りたくて質問を重ねていたらかえって不審がられてしまった。イヤ私は旅といえば大抵ぼんやりとでも目的の場所とかがあって、一旅一場所でできるだけ長く過ごすものですから、としどろもどろになってしまった。2~3日で、ポイントを移動していく旅という、流れていく指向エネルギーに直に出会って、とりあえずこれからもよき旅であることを祈った。いろんな旅の姿勢がある。

研究のためのフィールドワークとなるとどうだろう。これは探検と学術調査の違いなどについて書かれ議論された昔から、その様子は変わらない気がする。何か研究とか大義名分が付くとその実際についても、一般的に、高尚で、結果としてのデータがあって、でもその分現実味がなくなる。もちろん実際に研究者に会うとその地道な努力や研究対象へ向けられたあふれる感情に圧倒されたりするのだけど。(アラスカで会ったキノコ研究者の話。)でもなかなかそんな機会はない。

青山潤『アフリカにょろり旅』は、そんな機会を与えてくれる。フィールドワークというのがいかに危ないか、命がけか、現実を乗り越えていく力が必要か、これでもかこれでもかと伝えている。生物研究者を目指す人向けにモチベーションを高める書にはならないかもしれないけれど、これを楽しんでさらに自分もやってみたいと思えればまず精神力テストには合格か。バックパッカーの西洋人2人連れを見かけて、俺たちのほうが上級者だ、と高笑いする場面には何かよしよし。。と言ってあげたくなってしまう、これが本として読ませてもらえる側のずるさでよさです。







 

ハノイ散歩

 
シンチャオ。雨季、というのは雨模様な曇天ではないことを身をもって知ったベトナム・快晴ハノイの旅メモ。

- ハノイの道路におけるオートバイ天国は、聞いていたとおりものすごいけれど、信号機付きの交差点も所々にあるし、横断する人は歩いてます。と主張してゆっくり歩いていてそれで大丈夫。それにしても交通量に比べて、意外に香港のような喧噪というイメージがない。小さい商店とかもひしめき合っているのに。

- HISの航空券+ホテル付で4日間。夜に着く便のため、空港からホテルまでの送迎がありがたい。フリーは2日間で、未計画のままハノイへ。

- 電車に乗りたいなあ、とハノイ駅に向かってブラブラしていたら、現地ツアーの小さな店を見
つけ、ぶらりと立ち寄る。後から気が付いたけれど、現地ツアーコーディネートの小さなお店はあちこちにある。バス片道2時間30分の古都ホアルー&タムコックにその場で申し込み(ビュッフェのお昼付き)。

- タムコックでは手漕ぎボートならぬ足漕ぎボートで川下り。川のそばにはお墓や遺跡もあって、川の文明だったんだなあと強烈に暑い中でぼんやり思う。ヤギのスープ、ヤギ肉入り揚げ春巻きを食べた後、早速川沿いでヤギに会いました。

- 東南アジアを北上中のバックパッカーの女の子と会っておしゃべりする。カンボジアのプノンペンからベトナムに来たら、なんか街にホッとしましたーと。そう、このなじみやすい雰囲気はなんだろう。文廟にある古い建物のの瓦のデザインひとつにもなぜか静かにうれしくなる。



2016年6月 ハノイ 文廟




 
タムコック







 

2016年4月24日日曜日

ブルーノ・ムナーリ『モノからモノが生まれる』

飲食店に入って昔ながらの布のおしぼりが出てくるとほっとする。逆に、ビニールに入った湿った使い捨てのお手拭きが出てくると、いいお店でもそれだけでがっかりしてしまう。
駅でおにぎりを2つ買ったらお会計をしているスキにおばちゃんにお手拭きを2つ入れられてしまった。そもそもいらないのに、とも言えず。

こんなことを話のマクラに使うとすごくおこられそうだ。好悪を問わず、とにかく気になったモノの観察から世界は始まるんだ、というブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』は予想以上にキビシイ、デザインの実践的な哲学の本である。
イタリアの工業デザイナーのブルーノ・ムナーリは、その世間的な肩書とは違って、ある人にとっては絵本作家として記憶され、私にとっては何より次の言葉を残した人である――私たちは植物なしには生きられないが、植物は私たちなしでも、じゅうぶん生きていける。

モノの背後には人があり、世界があり、捨てても捨てきれないモノがあったはず。デザインの意義を考える手引きとして最適な本。




 

大山とたいまつ行列

2,000本のたいまつの炎が、闇の中で河となってゆっくりと流れ降りる。
燃えるたいまつをかかげ隙間なく行列となって参道を下っていく人の中にいると、炎でまぶしく明るい。でも少し参道の脇に目をそらせばそこは山の神社の神域を感じさせる木々と深い闇が奥に続いていた。

場所は日本海側に長いすそ野を広げる鳥取県の大山です。夏山開山日前夜の行事で、2015年の開催で69回目になるとのこと。

夕方、雨上がりのブナ林が美しい山歩きからちょうどたいまつ行列のスタートになる大神山神社奥宮に下りてくると、人がわさわさと準備をしていて、階段には三脚を抱えた人たちが場所取りをしている。参道沿いには三脚がズラズラズラと並び、ヨン様登場か、とこの時はまだ行列の何たることを想像もしなかったわけだった。

たいまつ引換券、なるシステムにもその気を抜かれさせるものがあり(手ぬぐいのお土産付き)、行列への構えとか期待とかはさらに下がる一方。


まだ夕暮れの明るさの残る中で始まった奥宮での神事は人の多さでまったく見えない。太鼓の音だけがスピーカーから聞こえる。いつの間にか、本当に2,000人くらい人が集まって何かを待っている。

神事が終わり、神火が運んでこられ、行列が始まった。

自分のたいまつに火をもらうために行儀よく順番を待つ。人工のライトなどまったくないなか、2,000人が、次々と、炎の河の一部になっていく。

カウントとしては夏山開きは69回目だけれど、はるか昔から、こうしたたいまつ行列はあったことだろう、大山を背後に、炎をかがけて、歩く。その集合体としての思いはどこにどう向かっていたのだろう。同じ道を、今私も歩いている。不思議な気持ちだった。

 
 
2015 大山夏山開き前夜
 

大神山神社奥宮




 

2016年1月23日土曜日

宮沢賢治・作 田島征三・絵『どんぐりと山猫』

今年2016年は宮沢賢治生誕120年。知り合いからの年賀状に書かれてあった。その知人は栃木で実践的な有機農業・自然農業を行っていて、宮沢賢治の求めた平和な暮らしを日々実践しているような方である。憧れや信念が人を進めさせその人となりを作っていくことを見せてくれている。

まだ本屋さんの企画としては目に留まらなかったけれど、またこの機会に宮沢賢治の世界がさらに多くの人の心の奥に散らばっていきますように。


いま手元にある宮沢賢治の作品からひとつ。田島征三・絵の『どんぐりと山猫』

「赤いずぼんをはいたどんぐりどもの裁判」も気になるが、どってこどってこと楽隊をつくったたくさんの白いきのこ、も大いに想像力をかきたてる。
きのこたちがどってこどってこ。
なんて豊かな岩手の秋の山。



 

半島暮らし


伊豆半島は海から半島ちょうど真ん中に位置する天城山にかけてぐぐぐと急な地形をしており、道路もアップダウンが激しい。半島付け根に位置する下田にかけては特に山がちであり、海ぎりぎりを走る伊豆急行線はトンネルばかりだ。豊かな温泉に恵まれ、伊東の町に点々とある銭湯もすべて温泉。蛇口からも温泉。
初めてこの土地に来た際案内してくれた不動産屋さんが、伊豆では一年中何かしら柑橘類があります、と話していた。

伊豆半島に暮らし始めてもうすぐ1年。

それまでの都会での暮らしでは、自然、というのは選択的、自分が求めた時に求めた形で接することができる自然だった。行きたいときに山に行っていい空気を吸って、天気が悪ければキャンセル。
オプションであって、本質ではない自然。非日常、という言葉は何か違うとはずっと思っていたけれど、どうも身体的にもギャップが埋められなくなってきていた。

通勤に毎日5時間も使ってしまうのは、どうかしていると自分でも思う。それが可能になってしまう電車だとかそういうエネルギーを考えるとくらくらする。

とにかく、朝と夜には改札が無人になる小さな小さな駅に降り立つと、本当にホッとする。

夏の夜が素晴らしい。海近くの駅から山に向かって電動自転車を走らせていてもエアコンの室外機の音を全然聞かない。

冬の朝は伊豆大島の端っこからトトトとのぼってくる太陽に向かって坂道を駆け下りていく。


伊豆大島の夜明け 2015年冬至



 

2015年12月13日日曜日

斎藤たま『南島紀行』

ふと思いついて近々奄美大島に行くので、予習のための本を求めて本屋をぶらぶらしていたときに出会えた本。斎藤たま『南島紀行』。
奄美は昔から気になっていたポイントがあるのだけれど、それはひとまず置いておいて、広告満載のガイドブック(それはそれで土地のお店が載っていれば目的によっては助かる本ではある。でも少なくとも今回求めてはいない。)ではなく、もう少しイメージを喚起させるような紀行文はないかしら。

こういうときに、信頼を寄せている好きな作家の紀行文があればいいのだけれど、なかなか行き当らなかった。どういう風に人は旅の土地を選ぶのだろう?もっと紀行文という本のジャンルが大事にされ本屋で役割を果たしてもいいと思う。ブルース・チャトウィンのような作家が育つには土壌が必要かもしれない。でも日本にもその土壌はあると、これはなんとなく思うのだけど。

もちろん斎藤たまさんのような旅があらゆる人にできるわけではない。見知らぬ家に宿を借りて2か月かけて奄美を旅している。個性豊かなおばあさんたちと「島ぐち」で話そうと、笑われながら格闘する。大島紬に携わってきた人たちの声を聞いて、機織りを、泥染めを観察する。なかなか先に読み進められない。整理された紹介ではなくて、斎藤たまさんが体験した話が再現されようとしているから、追いついていくのに時間がかかる。奄美の土地と暮らしが立体的に現れてくる。

ソテツの味噌には出会う機会はないかもしれない、でも本の表紙にある、魔除けとしてつるされているというヒンジャという貝に会えるといいいなと少し思う。


 

走れヒコーキ その2

小さい小さいヒコーキが好きだ。キャプテン(パイロット)も入れて8人乗りくらいの。薄汚れた小さいヒコーキたちが滑走路で並んで待っている。その中をゆっくりと歩いて行くキャプテン(パイロット)について行く。わくわく感をどうにか抑えて、いざ機上へ。小さなヒコーキはガタガタ左右に揺れながら、ふわっと飛び上がった。キャプテンと、おじいさんと、私を乗せて。

少しずつアラスカの旅も北上させている。フェアバンクスまで行くからには原野の村に行ってみたかった。日本にいる間も情報を集めたけれど、ピンとこない。やはり現地でさがそうと思ってフェアバンクスで決めることにした。それが、今回のメール定期便への便乗。本でアラスカ原野へのメール定期便の話は読んでいたけれど、実際に乗ることになったのはなんとも不思議。

今回はビーバー村とジョンストン村へ行く便に乗せてもらう。

人工物が何もない寒々とした荒野を飛んでいると、ユーコン川が見えてくる。飛行機の待合所でさんざん地図を眺めてどこを飛ぶか確認していたのに、全然ユーコン川のことを意識していなかった。これがあのユーコン。

灰色の建物がばらばらと川のほとりに散らばっているのが視界に入ってくる。どこに着陸するのかしらと思っていると、ここでキャプテンが信じられないくらいヒコーキを傾けて、ほんとに簡単に一回転させるんじゃないかと思った。(アラスカの人は何をするかわからない。)

ちょうど今ウサギのスープがあるのに、1泊くらいしていけば、というのを振り切って村を後にする。着いた時より去る時のほうが何か胸に来る。本当に、いろいろな暮らしがある。また来ます、と言ってしまった。また来なくちゃ。


ビーバー村に着陸 2015